『永遠に十八歳の友よ』 吉田 久美子(旧 張江)
黒沼さんにはいつも貴重な本を送って頂いていますね。ありがとうございます。本を開く度、鴻之舞の歴史を知り、私のあいまいな記憶を呼び戻していただいています。今回、『原稿執筆のご依頼』が届き、そろそろ永年かかえてきた宿題に手を付ける時がきたかな、と思い筆をとりました。
それは18歳で亡くなった、伊藤美千恵ちゃんとの思い出です。
私は小学3年生の時室蘭市から引っ越して、住吉町で1年間暮らしました。鴻之舞に来る前の2年間は転校を繰り返し落ち着かなかったのであまり友達がいなくて寂しい思いをしていました。でもみんなやさしくて引っ越してきてよかったと思いました。その後、移った元町の恩栄館の前の家が美千恵ちゃんの隣でした。クラスは違いましたがすぐに仲良くなりました。
その家は左右対称になっていて、私たちにとって1番大事な便利な場所が、勝手口の横の共同の洗濯場でした。暗くなっても、雪の日雨の日も、そこから行き来ができるなんて・・・私達ほど恩恵を被った者は他にいないかもしれません。
よく思い出すのは今の皇后様が御成婚された頃、美千恵ちゃんが「私もミッチィと呼んで」といった時、「否だ」といってしまったことです。そう呼んであげたらよかったな、と今も悔やんでいます。
一番ショックだったのは、美千恵ちゃんの生まれながらに背負わされてきた病気を知ったことでした。先天性の心臓病だったのです。彼女の口からたびたび『中学生になったら東京に行って女子医大の榊原教授に手術してもらう』という言葉を、聞くようになりました。
ある時は、「多分行くのは夏休みだから、久美ちゃんも一緒について行って。ベットの下に小さいベットがあるからそこで寝ればいいよ」と言われ「うん、いいよ」などと、気楽に請け負いました。私は何も解ってなくて、簡単に考えていたのです。
でも、隣に泊まりに行って、枕を並べて寝ているときに、「私の心臓の音って、障子を竹ぼうきで掃いたような音がするんだよ・・・」と言われて、衝撃を受けました。その時から、美千恵ちゃんの抱えているものの重大さが解った気がします。
中学生になってクラスが一緒になり、担任が高田先生になり、山田貞代ちゃん、山川真知子ちゃんも加わって仲良くしてました。一度だけこの四人が二つに分かれて大喧嘩したことがありました。つまらないことにこだわって、今なら笑い話しかならない事ですが。
二年生の冬、母と私がお風呂で大やけどをして、1ヵ月ぐらい入院した時、美千恵ちゃんがお見舞に来てくれて、母が「毎日来てもらうと美千恵ちゃんの体が心配」と言っていました。でも私は来てくれるのが楽しみでした。母の言う通りと思いながら。その時は、高田先生や他の友達からもお見舞や手紙をいただきました。本当にありがたかったです。
結局、美千恵ちゃんは、東京に手術を受けに行かないまま、国富に引っ越していくことになりました。
そのころはすさましい勢いで、同級生が転校して行き、三年生の二学期には人数が半分以下になりました。教室はがらがら、卒業まで静かな半年間でした。
高校生になり、文通は続けていました。二年生の終わり頃「修学旅行に行けないから、紋別に遊びに行っていい?」と、手紙が来ました。集団行動は無理だけど、美千恵ちゃんの行きたい所に行かせてやりたいと、ご両親が思われたのでしょうね。
私達が通っている学校が見たいと言うので案内しました。高校の玄関の前で、雪の中、コートを着て立っていた姿が忘れません。転校しなければ、一緒に通っていたかもしれない学校でした。
それから、程なく札幌の病院に入院したと言う手紙が来ました。私はそのうち退院するだろうぐらいに思っていましたが、次第に返信が、おかあさんの代筆になっていきました。リュウマチ熱という病名で、心臓にとても負担がかかっていたようです。私は卒業後は札幌に行くつもりでいたので、その時は会えるからと手紙に書きました。
でも、2月のある日、とうとう訃報が届きました。高田先生に知らせ、山田貞代さんと夜行列車で国富に向かいました。向かい合った席で、交わす言葉も見つかりません。
駅で家の場所を教えてもらい、雪道を歩いていくと、黒い服を着た人の列が私たちの前を進んでいきます。急いで追いつくと、美千恵ちゃんのお母さんの顔が見えました。私達に気が付くと、「どうして分ったの?知らせていないのに・・・」と、びっくりしていました。電報は、札幌に住んでいた山川真知子さんが打ってくれたのでしょうか・・・ 私達は焼き場まで一緒に行きましたが、「やつれているから」と対面はさせてもらいませんでした。その後、神式の葬儀が自宅で行われ、貞代さんと二人、泣き続けました。そんな私たちを見て「神式では、亡くなると家の守り神になるから、悲しんではいけないんだよ。」と家族の方たちに言われましたがどうしようもありません。
その夜は泊まらせてもらって、次の日、肩身に着物を頂きました。美千恵ちゃんは、小さい頃からお琴を習っていたので、良く着物を着ていました。着物姿でおかあさんやおねえさんと並んでお琴を演奏している姿を思い出します。我慢強くしっかりしていて、負けず嫌いの美千恵さんでした。もしも、一緒に年を重ねて生きていたら、どんな奥さんになっていたかな、どんなおかあさんで、どんなおばあちゃんでいたかな、空想する時があります。
美千恵ちゃん!あなたと別れてもう四十五年もたってしまいました。
もう少ししたら又会えるから、待っていてね。私だってこと、きっとわかるよね。
黒沼秀一事務所 刊 『望郷の鴻之舞』より転載

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