故 郷 を 訪 ね て
                                                     黒沼 秀一
  
 30年ぶりに訪れた故郷、北海道紋別市上鴻之舞地区は、以前にも増してうっそうと草木が茂り、離農時に植林した
樹木が視界を妨げていた。そこには往時を偲ぶ姿がほとんど消え去り、その有様に寂しさがこみ上げて来た。そこと
なくわかる生家の跡に立っても感慨深いものがない。
 難儀して自転車通学した思い出のそのジャリ道が幅のある立派な舗装道路に変わっていた。それが私の過去の思
い出を消してしまった。私の知っている故郷はもうそこにはなかった。9月の秋晴れが「いま」を印象付けていた。
 集団離農40年目の姿をフイルムにも焼き付けた。祖父母、父が昭和5年に仲間22戸と一緒にこの密林を開拓した、
その歴史のヒトカケラを。1号地の繁華街・昭和区跡、10号地のT屋敷跡に残る煙突、11号地に今も残るS家屋敷、峠
下の22号地にあるお地蔵の祠、また小学校の校舎基礎跡や馬頭観音など、かつてここにい住んでいた証として、数少
ない遺構を写真におさめた。9号地の我が屋敷跡にひっそりと咲く秋の花にもレンズを向けた。
 丸瀬布へ通じる金八峠越えは通行止めになっていた。その右の上鴻之舞林道奧では金八トンネル工事が真っ最中
だ。紋別から旭川方面へ出る近道になるこのトンネルが完成すると、無住地のこの地区を通る車も増えることであろ
う。だが、静かに眠っていたこの地区に懐かしく車を止める人が、ハテ何人いることか。
 上鴻之舞地区に行く途中にある「上藻別駅逓」で行われた鹿肉でのパーティー、そこで41年振りに再開した中学時
代の同級生達、そしてそして酔いを冷ますために表に出て夜空を見上げれば、一面の星空。みな忘れていたものだ。
 この駅逓へ向かう途中で藻別川に架かる橋から、浅瀬で産卵のためうごめく鮭の群れが見えた。今年は雨が少な
く川の水も少ないという。そのためどの鮭も背びれを川面から出している。川上にあった東洋一とうたわれた鴻之舞金
山が採掘を止めたことと関係があるのだろうか、藻別川に鮭が遡上していたのは驚きだった。
 2日間通った港町・紋別のネオン街、はまなす通りにある居酒屋「あかちょうちん」。活きのいい刺身をつまみに弟と
話が弾む。愛想の良い中年夫婦で切り盛りするこの店は居心地が良かった。はまなす通りは、ほとんどが船員相手の
小さなスナックばかりが目立つ。この度も港にはロシアの赤錆びた蟹漁船が数隻入っていたが、ロシアの船員も、もっ
ぱらひしめくスナックへ出入りするらしく、この居酒屋では見かけなかった。
 今回は弟を伴っての久しぶりの帰郷であった。
故郷を離れて41年、3度目の帰郷に30年が過ぎていた。今回は地元にできた「オホーック紋別空港」に初めて降り立っ
た。羽田から1時間45分、すっかり近くなっていた。故郷の空港に降り立ったときのさわやかな温度差が距離を感じさせ
るだけであった。北国オホーックの紋別に咲くナナカマド、そしてその赤い実がいっそう郷愁を誘う。私の故郷は以前に
も増して静かだ。しかしそこには今も変わらぬ温かい心があった。

(くろぬま ひでかず)
 
北海道紋別市上鴻之舞無番地
集団離農40年目の故郷を行く
                                2008年9月                       黒沼 秀一
   
           屋敷跡にひっそりと咲く                     昭和区(1号地)鴻之舞方面を臨む
    
         上鴻之舞小学校 土台が残る                馬頭観音 小学校跡近くに今も存在する
    
     9号地・黒沼家屋敷跡 幹線道路脇に在った        行き止まり 右側奥地では金八トンネル工事中





鴻之舞中学校同期会の皆様へ
我が国最古の金鉱を調べてみました。ご参考にされてください
我が国最古の産金地「陸奥・黄金迫」
                                           黒沼 秀一
 
 【データー】
産金地:宮城県遠田郡涌谷町黄金迫(わくやちょう こがねはさま)
       我が国の産金地は古代より16世紀はじめにいたるまで、陸奥が主であった。
      宮城県北部より岩手県にかけて、気仙・本吉・東磐井等の諸郡を中心とした砂金採取がそれであつた。
 
 大 仏:今から1250年前、厚い仏教信者であつた聖武天皇によって黄金の大仏を建てることが発願された。
       その時、陸奥守であった百済王敬福が二族を動員して涌谷の地に砂金を求めた。
 
根 拠:『読紀』に「陸奥国始貢黄金」とあり
     奈良時代、聖武天皇が建立した奈良・東大寺の大仏完成の塗金料として天平勝宝元年(749年)2月、
     黄金900両(13.5kg)が献上された。
     ※鍍金用の金が不足し、大仏の完成が危ぶまれていただけに、この金発見の朗報に聖武天皇が大変喜び、
     年号を天平から天平感宝へと変えた。金だけは国内産が無いため、中国や朝鮮から輸入していた。
 
褒 賞:陸奥国司:百済王敬福(くだらのこにしき けいふく) 従5位上より従3位に昇叙
     ※延臣および陸奥の官人は皆位を進められた。
     発見者、上総の人:丈部大麻呂(はせつかべ ふとまろ) 従5位下
     左京の人:朱牟須売(       ) 外従5位
     冶金工、左京の人:戸浄山(ごじょうざん) 大初位上
     金山の神主:日下部深淵(       ) 外少初位下
  
帰化民:丈部大麻昌や戸浄山は朝鮮からの大陸帰化民である。当時の我が国では砂金の探鉱技術や採取技術、
     製錬技術など持っていなかつたので、彼らの技術に頼るほかなく、政府は帰化民を非常に優遇していた。
     ※但し、我が国の産金は16世紀前記までは、砂金洗取が主であつたという。
   
発 掘:昭和32年に涌谷町黄金迫の黄金山神社境内の発掘調査が行われて、奈良時代の建物跡が発見された。
     この建物は産金を記念して建立された六角円堂と推定されており、天平産金の重要な関連遺跡として昭和
     42年国史跡の指定を受けた。
神 社:黄金山神社の歴史は古く、初産金のあった天平21年(749年)、砂金が採れた山に神社があつたことを示す
      記録がある。この神社が涌谷の産金と深い関わりのある黄金山神社で、後に国の官社となった。(涌谷町HP)
 
篦岳山:かつて砂金を採つた地域は、篦岳山(ののだけやま・2220m)兵陵一帯と考えられている。
     今でもこの兵陵のあちこちの沢から採れるわずかな砂金が、古代の栄華を現代に伝えている。(涌谷町HP)
 
万葉集:万葉歌人の大伴家持(おおとものやかもち)は、初産金を祝して歌を詠み、万葉集に残した。
     「すめらぎの御代(みよ)栄えむとあつまなる みちのくの山に黄金(こがね)花咲く」
     ※この歌は万葉史跡の北限として名高い。
 
【黄金の里】
   国史跡「黄金山産金史跡」
   歴史館「天平ろまん館」(平成6年7月開館)
 
【参考文献】
  『日本鉱山史の研究』(小葉田淳・昭和43年・岩波書店)
  『きみも金鉱を発見できる』(石井康夫・昭和61年・土木工学社)
  『地名を掘るー鉱山・鉱物による考察』(昭和61年・新人物往来社)
  他:涌谷町役場ホームベージ