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紋別空港より東京直行便就航 | 05紋別流氷接岸の写真

鴻紋軌道記記念碑 祝賀会(2003年7月20日撮影)

最近の鴻之舞です。(2001年6月17日撮影)

 校旗・優勝旗等(06/8/25追加更新)


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懐かしき鴻之舞 閉山前後の鴻之舞





日本の歴史に燦然と輝く東洋一の鴻之舞

 藻別の山奥にキラリ輝く金山の露頭が発見されて,またたく間に鉱業所の規模は大きくなり、山間を縫うようにしてマチが広がり、娯楽施設も増えた。

 戦時には、大増産計画のもと限界を超えた生産体制がとられ、それが山を荒廃させた原因となった。一時は1万5千人もの人口となった鴻之舞も、やがて次第に鉱脈が尽き、閉山に追い込まれた。

 文字通り黄金の歴史を誇った鴻之舞は、その活気を現在も山間に残しているようだ。金鉱と共に生まれ消えていった幻のようなマチだ。




鴻之舞鉱山五十六年の歴史を閉じる

 大正5年2月にモベツ川流域の大露頭が発見され、大正7年から採掘が始まった東洋一の大金山「鴻之舞鉱山」は、昭和48年5月24日に閉山式が行なわれた。56年間、貴重な金を提供してきた鴻之舞鉱山の歴史が終わった。

 大正7年の労働者は139人で、昭和元年は219人2年に268人と増え続けた。最初の生産高は金16キロ、銀69キロだったが、昭和2年には金742キロ銀2986キロ、17年は金2532キロ、銀5856キロとのびた。これは戦時需要で軍の至上命令で限界を超える操業を行なったが,企業としての利潤は上がらなかった。

 労働者の生活は困窮し、反面強制的な労働を強いられ鴻之舞鉱山の暗い時代だった。応召により減少する日本人労働者、増える朝鮮人労働者。一時は朝鮮人労働者が半数にもなった。太平洋戦争に突入し18年、金山が全面休止になった。このときの従業員は4552人という発展ぶりだった。

 戦後、25年には金の生産が1274キロとなり27年に2000キロ台、29年に3008キロを生産、これが同鉱山の金の生産の最大値を記録。その後2000キロ台を維持し続けたが、35年に1930キロ、43年に1000キロを割り、500キロ前後しかなくなった。

 昭和47年12月、「頼みの二号坑が底をついた。探鉱を続けてきたが金脈はもうない」と事実上の閉山予告が行なわれた。翌48年5月24日午後2時から、鉱山の第二クラブで閉山式がおこなわれた。

 56年の歴史を誇る東洋一の金山。その金山にしては式典は簡素なものだった。現在も尚、鉱山の坑道から湧き出す酸化水の処理の為、職員を3人置き、その費用は年間億単位だという。


----- 文 (株)北海民友新聞社「風雪に耐えて」より -----



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